私はどこへ行くのか・天宙を貫く大法則

小宇宙としての人間

人体は小宇宙にたとえられます。人体の構造は宇宙の構造にも似ていて、それぞれの器官が有機的に連結され、寸分の狂いもなく運行するように造られています。もし狂いが生じても、人体には治癒能力が備えられています。人間には本来、病気というものはないのかもしれません。病気は気を病むと書きます。体を悪くするのは人間の悪い心です。心配、不安、恐怖、憎悪、嫉妬、怨恨、等々のマイナスの感情です。
 医学が発達するにつれ、人体の神秘が次第に明らかになってきました。そしてクロ−ン人間を造る技術さえ持つようになりました。しかし今、人間は神の創造の神秘に踏み込むことに躊躇しているのです。
 人体のそれぞれの器官はそれ自体のための働きをすると同時に、他の器官のためという二重目的をもって、全体のために休みなく働いています。胃は食物を消化して、腸のために送りだし、腸は栄養分を吸収すると同時に、排泄する働きをしています。目や耳は情報を脳に送り、脳は神経組織を通じて全身に伝達します。
 脳はコンピュ−タ−のように、それぞれの役割分担があることが分かっています。しかし自分というもの、脳の全体をコントロ−ルする心がどこにあるのか、それが分からないのです。つまり脳も性相と形状の、二性性相になっているのです。記憶や言語、運動神経などが脳の形状とすれば、それをコントロ−ルする心が性相です。
 主体である心の命じるままに、体は動じ静じなければなりません。もし心と体が分離すれば精神病であり、主体と対象が逆転して肉体の欲望のままに心が従えば、家庭、社会の秩序は破壊されるのです。がん細胞のように勝手に増殖して体を滅ぼし、それ自体も死滅するのです。
 「健全な肉体に健全な精神がやどる」という言葉があるように、肉体からもたらされる活力は心を明るくします。また心から体に送られる要素も重要です。スポ−ツや勝負事でも勝てば疲れが吹っ飛び、負ければがっくりとくるのです。がん患者が困難な登山に成功して、がんが消えたという話もあります。医学的には脳内ホルモンが分泌することによって、体が活性化するのでしょう。
 原理では体から心へ送られる力を「生力要素」と呼び、心から体へ送られる力を「生霊要素」と呼びます。体が生命力にあふれて善なる行動をすれば、善の生力要素が心に送られて心が活性化します。また心が喜べば、善の生霊要素が体に送られて病気も治るのです。心身が健康であるということは、善の生力要素と生霊要素が授受作用して回転をしているという状態です。
 少年の日の夏の夜、突然の雷鳴と雷雨に湧き起こった歓喜の情感は、肉体からもたらされた生力要素に心が反応した結果です。
 では日の出を迎えた瞬間に触発された歓喜の情感は、どこから来たのでしょうか。それは体からの生力要素に先立って、ある主体からもたらされたのです。外的には昇る太陽の光と熱ですが、その背後にある見えない性相があったのです。
 私の心が喜び踊ったのは、ある大いなるものの波動に、私の心が反応したからです。それを宇宙意思と呼んでも、あるいは神と呼んでもよいでしょう。私の心はその対象となり、主体と対象が授受作用することによって、そこに歓喜のエネルギ−が爆発的に湧き起こったのです。
 神からの波動を、原理では「生素」と呼びます。心は体からの生力要素と、神の愛の波動である生素を受けて、生力要素と生素が授受作用することによって成長するのです。
 当然ながら神を否定する人が、神の愛の波動を受けることは不可能です。友情を結ぶには互いに相手を友と認め合わなければならないように、主体と対象が授受作用するには、それに先立って「相対基準」が結ばれなければなりません。
 修道者は滝に打たれたり座禅をしたり断食をしたり、さまざまな荒行をします。それは何のためかといえば、宇宙意思と相対基準を結ぶためであると考えられるのです。
 昇る太陽の背後に、私は神がおられることを実感したのです。その瞬間に、神との相対基準が結ばれたのです。そして心が神の愛の波動である生素を受け、あふれるような喜びの情感が湧いたのです。その善の生霊要素を体が受けて、私は歓声を挙げ、体が飛び跳ねたのでした。

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