私はどこへ行くのか・天宙を貫く大法則

脱落者たち

地位、名誉、財産を追い求める人生レ−スから、脱落した人々がいます。西行や山頭火は世間からはじき出されるようにして諸国をさまよい歩き、その思いを短歌や俳句に託しました。多くの詩人や芸術家は社会からはみ出すようにして独自の世界を築きました。
 天才画家ゴッホは、生前は一枚の絵も売れず、狂ったように猛烈な勢いで絵を描いた果てに、ピストル自殺をしてしまいました。ゴ−ギャンは優秀な証券マンでしたが、職業も妻子も捨ててタチヒ島に渡り、強烈な色彩の世界を描きました。彼も孤独のうちにのたれ死して、残された絵は逆さにして叩き売られたそうです。彼らの人生は悲惨でしたが、その作品は末永く残るでしょう。
 トルストイは大作家として世界の人々から崇拝されていました。すでに「戦争と平和」や「アンナ・カレ−ニナ」を完成して、富も名声も手中にしていた彼は、中年を過ぎて突然に悩み始めたのです。死というものを意識したとき、富や名声が何になるでしょうか。彼は結局、宗教に救いを求めました。そしてこの物質世界は仮りの宿りであって、霊魂は不滅であるという悟りに至ったのでした。
 トルストイと同時代のロシアの大作家ドストエフスキ−は、若いときから名声を博しましたが、革命運動に巻きこまれて死刑の宣告を受け、死刑執行寸前に許されるという異常な体験をしました。彼はシベリア流刑という過酷な三年間の囚人生活を送り、読むことを許された唯一の書物である聖書を熟読しました。そして神はいるのかいないのか、人間の罪とは何かを追求したのです。「この世は神とサタンの闘いだ。その戦場は人間の心だ」と彼は書いています。彼は心の中で渦巻く神とサタンの闘いを、長大な物語として展開したのでした。
 彼らはある意味では人生レ−スの脱落者です。人生における地位、名誉、財産よりも、普遍的で永遠な人生の目的を探究したのでした。芸術家はその探究の過程や結果を、作品という形で残すのです。理論的に人生の目的を追求してゆくのが、哲学者です。
 歴史上、多くの哲学者たちが人生の目的を追求して哲学体系を構築し、あるいは先哲の体系を解体して自説を主張しました。彼らの多くは大学で哲学を教えるよりも、屋根裏部屋で孤独な思索にふけったような人たちです。ニイチェやショ−ペンハウエル、キェルケゴ−ルも、いわば社会から忘れられたような人たちでした。彼らの思索は貴重な人類の遺産として残ってはいますが、これぞ絶対と万人が認める哲学体系を構築した人はいないのです。かえって思想と思想の対立という、混乱をもたらす結果になったのでした。
 理論的な思索にふけるよりも、より精神的で神秘的な、霊的な救いを求めて苦闘した人々が求道者です。彼らはこの世の栄誉、栄達を捨て、安楽な人生を捨てて人生の目的を追求したのでした。
 釈迦は一国の王子として何不自由のない生活をしていましたが、城外へ一歩出たとき、飢えと疫病に苦しむ民衆の姿に衝撃を受け、城を捨て妻子を捨て、求道の道を行ったのでした。人間はなぜこのように苦しまなければならないのか、人生の目的とは何であるのか、釈迦は断食をして座禅を組み、天からの啓示を受けるよりも自らの力で、真理を探究しました。その思索の結果が今日、膨大な教典として残されています。しかしあまりにも多様であり、教派分裂の原因ともなっています。
 釈迦は霊的な体験はしたのですが、霊界があるともないとも明言はしませんでした。また創造主という、唯一の神も明確にはしませんでした。
 イエスもいつの頃からか大工ヨセフと母マリアの家庭を捨て、求道の道を行きました。イエスは幼い頃から神の啓示を受けたようです。神を父と呼び、神の言われる通りに語り、行動しました。祭司や律法学者たちはイエスを信じず、イエスに従ったのは漁夫や取税人や、病人や女たちでした。当時の社会からは見捨てられたような人たちです。
 イエス三年半の公生涯は惨めでした。一時は奇跡を求めて群衆が押し寄せましたが、やがて人々は去り、十二弟子も去り、捕縛の瞬間には三弟子さえも逃げてしまいました。
 イエスは三日の後に霊的に復活して、そこからキリスト教が始まりました。後の使徒パウロは、罪なき神の子が十字架上で血を流されることによって、彼を信じる者の罪は許されるという贖罪の神学を立てました。イエスは人間であるよりも、神そのものになったのです。
 釈迦やイエスを信じて、彼らに追従しようとした後の求道者たちも、出家して仏門に入り、また修道院に入って生涯を独身で通したのです。しかし彼ら自身は悟りの境地に達したとしても、家庭を持たなければ一代限りで終わりです。また個人的には救いはもたらしたとしても、家庭の救いはどうでしょうか。
 真実の人生行路、それはマラソン競技のように生き残りをかけた競争でもなければ、レ−スから脱落して傍観することでもないはずです。
 二十一世紀は宗教と芸術の時代ともいわれます。政治や経済の力だけでは、人間に幸福をもたらすことはできません。しかし今、宗教教派は分裂して争い、既成宗教の力は衰えています。あらゆる面で終末的な現象を呈している人類世界を、黄金の二十一世紀へと導くには、天宙的な価値観を提示する新しい真理がなければなりません。

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