私はどこへ行くのか・天宙を貫く大法則

私の場合


 私は雪国の田舎町に生まれ、育ちました。赤トンボを追い、川にもぐり、冬になれば雪遊びに時のたつのを忘れる元気のいい子供でした。
 小学校に上がった年の夏、隣町に空襲がありました。赤く染まった焼夷弾が雨のように降ってくるのを見たのが、私の戦争の唯一の記憶です。私たち一家は村の親戚の家まで逃げ、そこで夜を明かしました。村人はさらに裏山に逃げていませんでした。遠くの夜空が赤く燃えているのを見つめていました。翌日戻ると十軒くらい手前まで延焼していましたが、わが家は無事でした。
 五年生の夏休みに、一つの運命の転機が訪れました。葬式の長い行列がつづいていました。その切れ目に、友だちがとび出したのです。私も後を追ってとび出しました。次の瞬間、左手にトラックが山のように大きく見え、私はゆっくりと倒れました。痛いとは感じませんでした。タイヤが私の左足にのり、そこで運転手がブレ−キをかけたために、膝から下の肉がむしり取られていました。私は右足一本で立ち上がったそうです。しかしすぐに倒れて、意識を失ってしまいました。
 一家は町の軍需工場に貸し布団を収めたりして、町では裕福なほうでしたが、空襲ですべてが灰になりました。それに左足が義足の私の将来を案じたこともあり、雪国の町を捨てる決心をしました。東京に出て、父は素人ながら職人を雇って肉屋を始めたのです。
 都会の小学校に上がった私は、学力の違いや田舎なまりに劣等感を覚えていました。足が不自由なこともあって、どうしても内向的になりました。テレビもファミコンもない時代です。必然的に本に親しむようになりました。屋根の上が私の書斎でした。
 中学に入ると、私の読書範囲は大人の大衆小説になりました。吉川英治の「三国史」や「宮本武蔵」に夢中になりました。古典的な大衆小説は一年生のときにほとんど読みました。あるとき「三四郎」という本を読みだしたのですが、いくら読んでも三四郎が柔道をやる気配がありません。何事も起こらないので読むのをやめてしまいました。「姿三四郎」と間違えていたのです。
 二年生のとき、学校に業者が文庫本を売りにきました。そこでたまたま手にしたのが「小さい英雄」という本でした。私と同年齢くらいの少年の、性に目覚める頃の心理を描いた小説です。私の幼い心は衝撃にふるえ、感動しました。それが初めて読んだドストエフスキ−の小説でした。また文学というものに目覚めた、最初の作品でした。
 高校の三年間は内外の文学書を読みあさる毎日でした。大衆小説と純文学作品の違いはどこにあるのでしょうか。簡単にいえば大衆小説は人生の目標を追求する内容であり、純文学作品は人生の目的を追求するものではないでしょうか。
 「三国史」は英雄たちが生き残りをかけた戦いの物語であり、武蔵も姿三四郎も勝負に勝つという明確な目標があります。メロドラマには恋愛の成就という目標があります。またサスペンスは事件の解決という目標があります。しかし純文学は人生の目的を追求するものだと思います。それがエロティシズムの追求であっても、そこに作者は人生の意味を追求しているのです。
 「暗夜行路」の主人公は真摯に生きる意味を求めて苦悩するのです。太宰治の作品に若者が共感するのは、人生の目的を求めて悩み苦しむ太宰に、自分の青春の悩みを重ね合わせるからでしょう。
 人間は何のために生きるのか、思春期を迎えれば誰もが一度は考えることです。それを生涯にわたって追求するのが文学者であり、哲学者です。哲学はより直接的に、人生の目的を追求します。私の読書範囲はトルストイやドストエフスキ−から、サルトルやカミュの実存主義文学に移り、ニイチエやショ−ペンハウエルの哲学に向かいました。中でも熱心に読んだのが、ニイチエの「ツアラッツストラ−かく語りぬ」でした。
 ニイチエは「神は死んだ」と宣言しました。「イエスを信じる者は救われる」というキリスト教を、弱者の教えと攻撃しました。ニイチエの思想は論理的考察から、ついには詩人のように歌いだすのです。神を否定すれば、人生の目的などは分かりません。時は永劫に回帰し、無目的の生を生きるのです。ここに超人の思想が生まれました。
 「汝の運命を愛せよ」ニイチエのこの言葉が、私の座右の銘になりました。
 高校三年の夏休みに「建設すべきものは何か」という、ニイチエを真似たような文章を書き、文芸部の雑誌に載せたことがあります。「建設すべきもの」とは人生の目的です。私なりに哲学的な考察を試みて、あれかこれかと論じたあげく、ニイチエのように歌いだすのです。
 夏の夜は自転車で街へくり出すのです。仲間は空の星でしょうか。孤独な夢想にふけりながら、暗い道を走るのです。そして繁華街に出ては、古本をあさるのが、私の夏の夜の楽しみでした。
 ある夜のこと、夕立に遇いました。暗い空を真っ二つに割るように稲妻が走り、落雷の轟音が轟き、そして激しい雨が体を叩きました。私は力いっぱい、ペダルをこぎました。雨から逃れようとしたのではありません。体の底から突き上げるような、爆発するような突然の歓喜に襲われて、私はわあ−と叫び、稲妻と雷雨に向かって突進したのでした。
 時は永刧に繰り返し、人生に目的はなくとも、生きているという喜びはあるのです。その喜びがどこから来るのか、私は知りませんでした。

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