神の実在と霊界の実相・霊界の聖人たち

この世の神、この世の君

涼しい風の吹くころ、主なる神が園の中を歩まれる音を聞いたアダムとエバは、園の木の間に身を隠したのでした。彼らが神の許しなく、肉体関係をもった後のことです。
 「あなたはどこにいるのか」神の声がしました。
 この時からアダムとエバは神に背を向け、神から隠れるようになったのです。そしてアダムは神の命令に背いたことを、エバの責任にしました。エバはまた「蛇がわたしをだまあしたのです」と、ル−シェルの責任にしたのです。
 神は蛇、すなわち天使長ル−シェルに言われました。
 「わたしは恨みをおく、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に」
 神のうちなる二性性相が、その似姿として肉身をまとったのがアダムとエバです。アダムとエバが完成したら、神は彼らを「祝福」されたのです。すなわち彼らが夫婦となり、「ふえよ」と言われたとおり、子女を繁殖することが神の願いであり、神の最高の喜びであったのです。彼らが肉体関係をもつことが罪ではありません。ただ早すぎたのです。
 人間は霊と肉とによって創造されました。愛にも霊的な愛と、肉的な愛があります。アダムとエバが霊肉ともに完成するなら、その愛による結びつきは、天使長の愛によって壊されるはずもなかったのです。しかし霊的に未だ未熟なとき、エバは天使長のよこしまな愛によって主管される危険性がありました。肉的な愛もまた、それほどに強い吸引力をもっているのです。
 神は取って食べたら死ぬという戒めは与えられましたが、それ以上の干渉はなさらないのです。神が創造主であるなら、神に似たものとしての人間にも、創造性が付与されなければなりません。それが人間の自由であり、人間の責任でもあります。もし人間に自由という責任分担が与えられなかったら、万物と同じになってしまいます。人間から自由を取り上げるなら、万物の主管主という人間の位置が失われてしまうのです。
 神は原理原則の神です。宇宙の運行に寸分の狂いもないように、天の法度には違反も許しもないのです。神の命令を守ることが、アダムとエバに与えられた責任でした。彼らは付与された自由によって堕落したのではありません。万物であり僕である天使長に主管され、自由を拘束されることによって、アダムとエバは堕落したのです。万物以下に落ちたのです。
 神はル−シェルの堕落行為を、防止することはできなかったのでしょうか。ル−シェルは神の僕です。神が僕の堕落行為に干渉するなら、僕をもう一人の主人として、悪神サタンとして認めてしまうことになるのです。とすればル−シェルが神のもとへ戻ってくる道がないのです。
 文鮮明先生は話のまくらのように、いつも人類始祖の堕落ということから説教を始められるのです。ル−シェルとエバが霊的な性関係を結んだその瞬間は、神に千秋万代の痛みと悲しみを与えた瞬間でした。神の妻ともなるべきエバが、僕に奪われた痛恨の一瞬であったのです。
 エバがル−シェと霊的に一体になったとき、エバはル−シェルの性禀をすべて相続したのです。神に見捨てられたという不平不満、恨みと嫉妬心。エバの肉体を奪いたいというよこしまな情欲。エバを通してアダムの位置に立ちたいという反逆心と権力への意思。そして神に反逆する瞬間の不安と恐怖が入り交じった怒気と血気。すべてが自己中心の思いであったのです。神と同じ立場でアダムとエバを愛し導くべき天使長が、自己の位置を離れてしまったのです。ここに人類歴史を地獄の闘争の歴史にした、人間のエゴが発生したのです。
 ル−シェルがエバを誘惑したように、エバはアダムを誘惑しました。ここに霊的な堕落に続いて、肉的な堕落が起こったのです。神の血統にサタンの血統が混入してしまったのです。人類始祖の堕落は血統的な罪として、連綿として人間に受け継がれ、人類は世界に産み広まったのでした。
 天使長ル−シェルは天から地に投げ落とされ、この世の神、この世の君、サタンとなりました。人間は神の子であると同時にサタンの子でもある、中間位置に立たされたのです。神とサタンは長い歴史を通じて、人間を奪い合う熾烈な闘争をしてきました。その戦場がどこかといえば、私たちの心であったのです。
 神はアダムの家庭から、子女を取り戻す復帰の摂理を始められました。サタンのものと神のものを分離する摂理です。長子カインはル−シェルの性禀を濃厚に受け継ぐサタンの子です。やがて神が取ることのできる次子アベルが生まれたとき、神は善悪を分立する供え物の摂理をされたのです。
 神はアベルの供え物は受け取りましたが、カインの供え物は受け取られませんでした。それはサタンの物であったのです。カインはアベルにその供え物を託し、アベルに従って神の前に出なければなりませんでした。悪も善に屈伏すれば、善に戻ることができたのです。しかしカインには神がなぜ自分の供え物を受け取られないのか、理解できません。それは不合理です。サタンの思いとは、人間的な思いです。合理的な精神とは、とかく神に反する思いであるのです。
 カインはどうしたでしょうか。怒りと嫉妬から血気にはやって、アベルを打ち殺してしまったのです。エバと蛇の罪はそのすえ、兄カインの弟アベル殺しとなって現れたのです。神の嘆きと悲しみはいかばかりであったでしょうか。しかし神はカインを許され、エデンの園から追放されたのでした。
 人類は姦淫と殺人の家庭から出発しました。神を中心とする家庭から、サタンを中心とする家庭になってしまったのです。しかし神は堕落した人間を放置しておくなら、無能な神になってしまいます。神はさらに時を待って、ノアの家庭、アブラハムの家庭と、復帰の摂理をされてこられたのでした。「創世記」の物語は兄が弟に屈伏する物語であり、神の家庭を復帰するという物語であったのです。

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