神の実在と霊界の実相・霊界の聖人たち

地獄の住人たち

「殺すなかれ、姦淫するなかれ」はモ−セの十戒の黄金律です。しかしイエスはさらに厳しく言いました。兄弟に対して怒る者は裁判を受け、愚か者と言う者は議会に引き渡され、ばか者という者は地獄の火に投げ込まれる、というのです。
 「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である」(マタイ五・二八)
 イエスのこの厳しい言葉は、ただの教訓ではありません。地獄の実相を言い表している言葉です。殺人や姦淫は罪の結果です。その原因となる堕落性本性が、人間の心にはあるということです。すべてが自己中心の思いです。イエスは人間のエゴ、堕落性本性を脱ぎ捨てなさいと教えているのです。
 霊界は想念の世界です。心の実相が霊人体の姿となって、互いに見える世界です。隠すことができないのです。恨み、嫉妬、血気、怒気、よこしまな情欲を抱くなら、それがそのままの顔かたち、姿となって見えるのが霊界です。
 夫婦が霊肉ともに愛し合うならば、性愛は無我の境地となり、神秘の世界に接するようになるというのです。天国での愛の行為は、隠れて行うのではありません。満開の花が咲く広い野原、砕ける波の上、鳥が歌う山の中、森の中でも愛の行為をするのです。それを見る者も、あまりの美しさに酔うようになるというのです。
 しかし地上での愛の行為は、居間や寝室で人に見られないように行います。見苦しいとか、恥ずかしという感情がともなうのです。地獄でも隠れて行うのですが、それが見えてしまうのです。それを見る者は醜いと指差し、悪口を言うのです。
 地獄の一場面を覗いてみましょう。
 女が下半身も隠さないで裸体で立っています。すると男が女の下半身に触り、また別の女がその男の下半身に触って、自分のものだと言いながらけんかするのです。
 下駄をはいた女が転ぶと、その下駄を取って隠した女は「知らない」と叫ぶのです。すると周囲の者が「あの女が泥棒だ」と指差して走りより、ぶんなぐるのです。
 手の不自由な老人が食べ物をつかめないでいると、周囲の若者が器ごと奪って、自分の口に放り込むのです。
 髪を剃られた女が恥じて、手拭いで頭を隠していると、人が通りすがりに手拭いを奪い取るのです。女が手拭いを奪い返してかぶると、今度ははさみで切って半分持って行ってしまうのです。
 痴情のもつれから愛人を殺害した男と女の地獄図は、陰惨きわまる姿です。男と女はにらみあって座っています。男の下半身は赤ん坊の頭ほどに腫れ上がっているのです。その女は腫れ上がった男の下半身を触って戯れているのです。男は死ぬほどの苦痛を味わうのです。苦痛にうめく男の後ろでは、その男の父親が息子に見られるのではないかとびくびくしながら、遊女と戯れているのです。それはとても目を開けて見られた光景ではないというのです。
 これは地獄の光景のほんの一例にすぎません。人類始祖の姦淫の血筋が、地上の性の乱れとなって表れ、地獄の様相となっているのです。

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