神の実在と霊界の実相・霊界の聖人たち

人間の欲望

堕落によって何が失われたのでしょうか。文鮮明先生が常に語られることが、真の愛、真の血統、真に生命が失われたのです。
 堕落することによって、人間は神に背を向けました。人類の歴史は神から背走する歴史であったのです。そして肉身にサタンの血統が混入することによって、霊と肉の分離が起こりました。本来は心が主体であり、肉身はその対象であるべきであったのが、主体と対象の逆転現象が起こったのです。肉身の欲望のままに、心が引きずられてしまうのです。心では善を願いながらも、肉身はそれとは相反する方向に行ってしまうのです。
 霊と肉が分離し、地上界と天上界が分離してしまいました。人間は神が信じられず、霊界が分からなくなったのです。そして地上界はこの世の神、サタンが主管するところとなり、神が地上に足を下ろせる所は、一寸といえどもないというのです。
 堕落した人間は本質的に自己中心であり、唯物的です。人生はおぎゃと生まれてから、肉身が滅びて死ぬまでに限られるのです。俗に死んで花実が咲くものかというように、死んだらすべてが終わりです。人生の目標も目的も、地上の肉身生活に限って考えられてきたのでした。
 人間が見えない神も霊界も否定するなら、目に見える物質のみに価値をおくしかありません。しかしながら物質というものは有限です。誰かが自分の物にすれば、他者はそれを失います。ここに人間の所有欲が生まれ、より多くの物を自分の物として、あわよくば他人の物まで奪い取りたいのが人間です。奪われた者はまた、奪い返そうとするのです。
 動物は自然の摂理に従って、足ることを知っています。肉食動物であっても満腹になればそれ以上に殺すことはしません。しかし人間の欲望は限りがありません。より多くの、よりおいしい物を食べたいのが人間の欲望です。満腹になれば貯蔵する知恵が、人間にはあります。さらには物質をお金に換えるという、知恵を人間は持つようになりました。
 有限な物を奪い合うなら、ここに闘争が起こります。個人の争いから、やがて氏族の争い、部族間の争い、国家の争いと闘争の歴史は発展してゆきました。物を奪い合い、土地を奪い合ってきたのです。
 心理学者フロイドは、人間の行動は性欲に支配されると考えました。さらにフロイド学派は、人間は権力への意思によって動かされると考えたのです。ル−シェルがよこしまな情欲に支配され、アダムの位置に立ちたいという権力への意思に動かされ、エバを誘惑してアダムを奪った、その堕落性本性の表れです。
 人間の果てしなき欲望と、エゴとエゴがぶつかり、権力への意思と反逆心がぶつかれば、必然的に闘争が起こります。物を奪い、土地を奪い、人を奪い、国を奪い合う動乱の世となるのです。誰もが平和を願いながら、人類歴史は地獄の戦争の歴史となりました。今もってテロと報復の、果てしなき騒乱がつづいています。
 堕落によって失われた真の愛とは、わが子を愛する親の愛であり、祖父が孫を愛する無償の愛です。真の愛とは、神様の創造本然の愛です。物質は有限ですが、心は無限です。愛すれば愛するほど、愛は豊かになり、愛は無限に広がるのです。創造本然の人間は、互いのために生きるようになっていたのす。真の愛の根源は、神様の愛にあるのです。
 真の血統とは、神の血統です。人類始祖の堕落によって、神の血統にサタンの血統が混入してしまったのです。真の血統が失われ、サタンは人間の肉身に侵入しました。ですから時代と民族を問わず、姦淫を最大の罪とするのです。しかし宗教の影響力が薄れ、時代が下り、人間の暮らしが豊かになるほど、性の倫理は乱れるのです。
 真の生命とは、霊的な生命です。イエス様は生きて葬式の準備をする弟子の親族を、死人と呼びました。霊的な生命の死を意味する言葉です。アダムとエバは取って食べたら死ぬと言われましたが、肉身は死にはしませんでした。霊的な命が死んだのです。
 罪を犯したことがないという善人であっても、血統的な罪、遺伝的な罪人であることは免れないのです。いかなる人も、サタンの血統をひく堕落人間です。しかしながら人間は、神の血統をひく神の子でもあります。人間は心では善を求め、神を求めるのです。それが人間の本心であり、良心です。人間の良心の主体が、神であるというのです。人間に本心も良心もなければ、神の復帰摂理も不可能でしょう。
 神はその時代、地域や民族の基準に合わせ、特別な使命のある人物を召命されました。神はその人物を中心として、宗教を立ててこられたのです。
 宗教者はこの世の栄華を捨て、出家して修道の道を歩みました。そして禁欲を守り、独身を通すことを良しとしたのです。この世がサタンの支配する世であり、人間がサタンの血統であることの表れです。宗教者もメシヤによって「祝福」を受けなければならないのです。

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