神の実在と霊界の実相・霊界の聖人たち

権力と金の亡者の姿

地上で権力者であった者は、霊界では身動きのとれない巨人の姿でいます。また金持ち金満家は、ぶくぶくに太って腫れあがった姿になっているのです。
 そんな金持ちの女がいました。彼女の唯一の願いは腫れあがった肉が取れて、身軽に歩き回ることでした。しかしあまりに重たくて、誰かの世話にならなければ歩くこともできないのです。その女性は財産管理の問題で、心の休まる日がありませんでした。またお金をふやすために周囲の人を傷つけ、兄弟たちとも怨讐関係になっていました。そして結局財産問題の心労のために心臓まひで死んだのでした。
 霊界では、彼女が起き上がろうとして手を貸してくれと人に頼むと、「金持ちなのだから召使を雇って、召使にやらせればよかろうに、どうして私たちに頼むのか」と罵って、誰も彼女を助けようとはしないのです。何とも哀れな光景です。
 地上で生活しているときは体も健康であり、あらゆる栄耀栄華を享受して人生を惜しみなく生きた人物がいました。彼は人間が神を求めるのは、自分の弱さのゆえであると考えていました。神は必要ない、どこに神がいるのか、と考える無神論者でした。そんな豊かな地上生活を送った人物が霊界に来てみると、残されたものは何もなかったのです。
 世話をしてくれる者もなく、食べる物も、着る物すらなかったのです。そしてすべての友人が彼を軽蔑して、冷遇するのでした。
 「お前はこんな物は食べないよなあ、こんな服も着ないよなあ、お前の望む食べ物と場所のある所に移るがいいさ」と彼は行く先々で追い払われ、乞食のような身になってしまったのです。「金持ちと乞食のラザロ」によく似た話です。
 聖アウグスティヌスは、霊界から次のように語っています。
 「財物は人間にとって毒物になりやすいため、適切に主管して管理しなければならない。周知のように、人間は肉身と霊人体によって構成された、二重的な存在である。肉身は地上生活において必要で、霊人体は永遠なる世界において必要なものである。どちらにより多くの力を注ぐべきか、じっくりと考えてみてほしい」
 使徒パウロが霊界の地獄で出会った大金持ちは、髪の毛が栗のいがのようにちくちくと出ていて、横になるろうとすると刺さって痛くて、横になることもできない姿でした。
 彼はお金のためなら手段を選ばないという人生を送った人間でした。霊界での姿はひどいものです。瞳はおかしな恰好で広がっていて、唇は腫れあがり、へそは飛び出して服を着ることもできず、生殖器を隠すためには服を握っていなければならないのですが、ずり下がって恥をかくのでした。おしりと横腹からは黄色い水が流れ、悪臭がただよって、そばに人がいることもできないのです。
 名誉と権力によって生きた者の姿は、立派な体格をした巨人の姿でした。ぴくりともできない不動の姿で座っているのです。周囲の人々はゲ−ムをして遊んだり、酒を飲んだり寝たりしているのですが、巨人は不動の姿勢なので加わることもできないのです。
 「あの巨人は私たちとは身分が違うので、酒を飲むこともできず、私たちの物を食べることもできないのです。私たちはあの人を相手にしません。そのほうが気楽でいいです」と彼らは言うのでした。
 また別の巨人は二つの目がぽこんとへこんで、骸骨の人相でした。体格のいい骨を組んで、じっと座ったままでいるのです。彼は「最も下で働く小使が今、最もうらやましい。地上では名誉も権勢も掌中にあったので、霊界でも物質が多くの影響力を及ぼすと考えていたのに、ここでは全く恵沢がない」と嘆くのでした。彼は地上では富も権力も不足がなかったので、お金ですべてが解決できると考えていて、相手の人格や自尊心は考えてみたこともなかった人間でした。
 「深刻に考えてください。いくら国のために生き、家庭のために生き、他人のために最善を尽くして生きたとしても、手段と方法に善行が伴わなければ、ここに来ればはっきりと罠に引っ掛かるようになっています。永遠の国の罠は残酷で過酷です。値引きも事情もありません。そうであろうではなく、はっきりとそうです」
 このように使徒パウロは伝えています。
 霊界では財産や権力、地位や名声も意味をもたないのです。知識や学歴によって恵沢を受けるいうこともありません。地上で得る知識など、霊界では一週間で得ることができるというのです。
 豪邸に住み、高級車を乗り回すことがあなたの人生の目標なら、それがまさに地獄行きの標識になっているのです。地上の肉身生活は、瞬きをする間だというのです。ジプシ−や遊牧民族が、立派な家を建ててどうするでしょうか。

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